綿貫佳祐 デザインポートフォリオ

適応を絶対視する危うさ

ついていけない人を断罪する態度について、その構造的な問題を考えてみました。

新しいツールやルールが導入されると、ある程度は適応できない人が出てきます。
体感的にはどんな分野でも2割くらいはそうなる印象です。

その際、適応できた側の人が「ついて来れない人が悪い」「努力すべきだ」と言うのを見かけます。
仕事の場面では特に多いのかもしれません。

この振る舞いに対して煮え切らない感情を覚えるため、その理由を考えてみました。

適応が絶対的な正義になるとき

「ついて来れない人が悪い」という言葉に問題を感じるのは、単にそれが冷たいからではありません。

この言葉の背後には「ある仕組みに適応できること」が絶対に正しい、という前提があります。
適応できた人は正しく、適応できない人は正しくない、という構造が疑いの余地なく語られます。

しかし、任意の仕組み1つに適応できるかどうかなんて、人間の能力のうち限定的な一面に過ぎません。

現代の仕事では、言語化や数値を扱う能力が重宝されています。
それは間違いありません。
しかし、それは今の社会がそういう構造になっているからです。

もし社会の構造が違っていたら、ビジュアルシンカーこそが重用され、言語的思考の人間は使えない扱いをされていたかもしれません。
これに限らず、評価されている人間は、たまたま自分の得意領域が評価される世界で生きているんだけなんだという理解は、あって然るべきだと思います。

それなのに「適応できた側=正しい側」のような図式を暗黙的に成立させてしまうのは、議論の可能性を最初から閉ざしているような態度に見え、知的誠実さを欠いているように見えます。

「私は困っていない」の脆さ

仕事において、ルールや環境の側の改善提案をすることが多いです。
「ルールを緩和しませんか」「この業務自体を見直しませんか」「人間が対応するとどうしてもミスが出るから自動化しませんか」などの提案です。

それらの提案に対して「慣れればできる」「私は困っていない」といった返事をもらうことがあります。

実際の例で言えば、確認項目が複数のシステムに散らばっていて、チェックのたびに画面を行き来しなければならない業務がありました。
当然ミスが頻発するのですが、「マニュアルをよく読んでください」と個人の注意力の問題として扱われていました。

これは一見もっともらしいですが、構造的に脆いです。

「私は困っていない」は、自分が適応できたと言う事実から「適応できるのが正常だ」という結論を導いています。
しかしこれは自分の経験を一般化しているに過ぎません。

人間には得意不得意がありますから、自分が適応できることは、それが万人にとって容易であることの証明にはなりません。

そして、この論法の最も問題な点は、構造的な改善の機会を潰すことです。

問題の原因を個人の能力に帰属させれば、環境を変える必要はなくなります。
「困っていない」その人は何も変えなくて済みますが、全体は何も良くなりません。

人間の能力を過信しないこと

私が提案する例で出した、ルールの緩和・業務の見直し・自動化は「人間の能力に依存しない仕組みを作ろう」という発想から出ています。

この発想の根底にあるのは、人間の能力を過信しないというスタンスです。

人はミスをしますし、忘れますし、得意不得意があります。
その前提に立てば、個人の能力に依存する運用は脆く、機械で補える部分は補った方が良い、という結論になるはずです。

一方「ついて来れない人が悪い」と言う人は、少なくとも自分の能力に自信があるように見えます。
自分は適応できたから、適応できない側に問題がある、という理屈ですから、そうですよね。
この前提に立っている限り、仕組みの改善に関心が向くことは無いのでしょう。

逆説的ですが、人間を信用していない方が、結果的に人間に優しい仕組みを作れると考えています。

批判の再帰性

ここまで書いてきていますが、1つ正直に認めないといけないことがあります。

「ついて来れない人が悪いという意見の脆さについて、考えれば分かるのでは」といったニュアンスで書いていますが、これ自体が「ついて来れない人が悪い」と同じ構造ではあるのです。

ある能力の有無だけで何かを判断しない方が良いと言いたいのに、その構造を理解できない人に対して、理解力の無さでもって批判しています。

この批判自体が、批判している対象の構造を再生産しています。

自己言及のパラドックスみたいなものですから、簡単には解消できません。
少なくとも今の私にはできません。

自覚の有無

では、このループの中にいる人間が全員同じかというと、それもまた違うと思います。

同じ穴の中にいるとしても、自分が穴の中にいると自覚しているかどうかで、振る舞いは変わります。

自覚があれば断言は避けます。
自分も同じ状況に陥ると分かっているから、言葉選びは慎重になります。

自覚がない人は躊躇うことなく断罪します。
「ついて来れない人が悪い」と堂々と言えます。
ともすれば、その堂々とした態度が「リーダーシップがある」と捉えられることすらあるでしょう。

私自身の話でいうと、複数の会社で働き、外部で登壇や出版もしている実績から、自分がある程度の高みにいる自負はあります。
しかし、上を見れば自分の力が及ばない領域がいくらでもあることにも自覚的です。

この「高みにいる自覚」と、それでもなお「自分より遥か上の存在を知覚していること」があわさって、自分は一方的な断罪を避けているのだと思います。

頂点の存在からしたら、全員等しく大したことのない、矮小な存在です。
矮小なもの同士力を合わせるしかありません。

個人的な美しさの話

以下は特に理屈は無く、ごく個人的な感覚です。

  • 自分が適応できたという限られた経験を根拠に、適応できない他者を断罪する
  • 自分もまた、別の誰かから見れば同じように断罪されうる存在であることに無自覚でいる

これらの視野の狭さと自信の大きさの不釣り合いは、私には美しく映りません。