綿貫佳祐 デザインポートフォリオ

Evilと呼ぶ前に

強い言葉で批判する前に、立ち止まって考えたいこと。

私の観測範囲では「◯◯はevil」という言い回しをよく見かけます。
Googleがかつて「Don’t be evil」を掲げていた影響もあってか、企業やサービスを断罪する際のお決まりの表現になっているようです。

外部からの批判だけでなく、従業員が経営判断を「evil」や「悪」と呼ぶ場面も珍しくありません。
レイオフ、事業撤退、方針転換。
そうした意思決定に対して、内部から強い言葉が投げかけられることがあります。

私はこの「evil」という言葉の使われ方に、違和感を持っています。

例: 発酵と腐敗

発酵と腐敗は、微生物による有機物の分解という点では同じ現象です。
違いは、人間にとって有益かどうかです。
同じメカニズムでも、有益なら発酵、有害なら腐敗と呼ばれます。

サービス設計にも、似た構造があると思っています。

例えば、ユーザーの入力を補助する機能。
表記揺れを吸収したり、誤字を修正したり、文脈から意図を推測して結果を調整したり、というものがあります。
こうした処理は、ユーザーが期待した通りに動けば「気が利いている」と評価され、期待と違えば「勝手なことをするな」と批判されます。

同じ設計思想、同じ技術的アプローチでも、ユーザーにとって都合が良ければ賢い機能、都合が悪ければ不誠実な設計というわけです。
判断基準は、結局のところ「自分にとって便利かどうか」に収束しがちです。

組織の意思決定も似ているでしょうか。
リスク管理のための承認フロー厳格化は、経営から見れば統制の強化、現場から見れば煩雑な手続きの増加。
情報共有のための会議追加は、マネジメントから見れば透明性の向上、メンバーから見れば作業時間の圧迫。
同じ意思決定が、立場によってまったく違う評価を受けがちかと思います。

もちろん、明確に悪意を持った判断や、倫理的に問題のある行為は存在します。
それらは批判されるべきですし、私もそう思います。
ただ、その境界線がグレーな領域——つまり「悪意があったのか、苦渋の決断だったのか」が外からは判断しにくいケース——において、安易にevilと断じることへの違和感がこの記事の主題です。

複雑なものを単純にする暴力

「evil」という言葉には、議論を終わらせる力があります。

善と悪。白と黒。
evilと断じた瞬間、対象は「検討の余地なく悪いもの」になります。
複雑な背景、トレードオフ、制約条件、そういったものを一切考慮せずに結論を出せる便利な言葉です。

組織の意思決定を例にとると、市場環境、財務状況、リソースの制約、ステークホルダー間の力学。
こうした複雑な要素が絡み合っているはずの判断を、「evilだ」と一言で片付けるのは、楽ではありますが、正確ではないでしょう。

現場の立場からは見えない情報もあります。
もちろん、意思決定者が常に正しいわけではないし、説明責任を果たしていないケースもあるでしょう。
批判すべき判断は、批判されるべきです。
ただ、見えていない部分があるかもしれないという可能性を、最初から排除してしまうのは危うい態度だと思います。

複雑なものを複雑なまま扱うのは、疲れます。
だからつい、わかりやすいラベルを貼りたくなる。その気持ちは理解できます。

ただ、その「わかりやすさ」は、対象を正しく見ることを妨げます。

断罪の快楽

「evilだ」と言い切るとき、人は少し気持ちよくなっているのではないかと思います。

悪を見抜いた自分。
正義の側に立っている自分。
複雑な世界の中で、明確な判断を下せる自分。

これは責めているわけではなく、私自身にもそういう傾向がないとは言えません。
何かを強く批判しているとき、そこに快楽が混じっていないか、完全には否定できません。

ただ、だからこそ慎重になりたいとも思います。

自分の判断が、本当に対象を正確に捉えた結果なのか。
それとも、断罪する気持ちよさに引っ張られた結果なのか。その区別は、意識しないと簡単に曖昧になります。

好みを倫理にすり替えない

私が最も違和感を持つのは、個人の好みや信条を、倫理的な正しさにすり替える姿勢です。

「私はこの判断に賛同できない」と言えばいいところを、「この判断はevilだ」と言う。
主観を客観に、好みを倫理に、意見を事実に格上げする。

これは、自分の正しさを疑う余地を自ら閉ざす行為です。

「賛同できない」なら反論の余地があります。 「evilだ」は反論を許しません。

そして、そういう言葉を振りかざす姿勢は、私にはあまり美しく見えません。

私はどうしたいか

念のため補足しておくと、誰かが傷ついたり、不利益を被ったりしたときに、その感情を否定したいわけではありません。
理不尽な目に遭ったと感じる人が怒りを表明すること自体は、自然なことだと思います。

ただ、その怒りを「evil」という言葉に変換する瞬間に、何かが失われている気がするのです。

他人に「evilと言うな」と強制する気はありません。

ただ、自分自身については、その言葉を使う前に立ち止まりたいと思っています。

本当に「悪」なのか。
それとも単に「自分に都合が悪い」だけなのか。
複雑な現象を、安易に単純化していないか。
断罪する気持ちよさに流されていないか。
自分には見えていない情報があるのではないか。

考え続けても、明確な答えが出ないことのほうが多いでしょう。
でも、考えずに断言するよりは、考えた上で保留するほうが、私の好みには合っています。