自分が言っていることを、自分が徹底して実行できているか
私は、他者に対して何かを主張するとき、自分自身がそれを実践できているかを非常に気にします。
特にその主張が正論であるほど、気にしています。
例えば「アウトプットをしよう」と言うなら、私自身が十分にアウトプットしているか。
「締め切りを守ろう」と言うなら、私自身が余裕を持って完了できているか。
なぜここまで気にするのか、少し整理してみます。
正論を言うことの気持ちよさ
正論はそれ自体が「正しい」ので、言っている側は気持ちがいいです。
論理的に正しく、道義的にも正しく、反論の余地がありません。
ですから、正論を言っているときは自分が正義の側にいる感覚に陥りやすいです。
しかし、正論を言うことと正論を実践することは、まったくもって別の話です。
正論を言えるからとて、その人が正論に即した動きをしているかは分かりません。
言葉として発するのは簡単だからこそ、実態との乖離が目立ってしまう場合すらあります。
気がつくと、人には偉そうに正論を振りかざしていて、自分自身はろくにできていない——そんな状態になりかねません。
自分に対する視線の甘さ
そもそも人間は、他者に対しては厳しく、自分に対しては甘くなりがちです。
- 他者の遅刻は怠慢だけど、自分の遅刻は理由があるからしょうがない
- 他者のミスは事前に気づけたものだけど、自分のミスは予想できるはずもなかったからしょうがない
こういった非対称性は、強く意識しないと簡単に生まれてしまいます。
私はそれなりに自分に厳しい自負がありますが、それでも気を抜くとこの傾向が出ます。
だからこそ、自分が妥当だと思う以上に、厳しく自分を見るようにしています。
そのくらいでようやく、他者と同程度の視線で自分を見られるかな、という感覚です。
正論を言うことの攻撃性
もう一つ、正論について考えておきたいことがあります。
正論を言うという行為は、単なる情報の伝達ではありません。
「あなたは今のままではダメで、変わるべきだ」という要求を含んでいます。
要求には、多かれ少なかれ攻撃性とか暴力性とか、とにかく力めいたものが伴います。
相手の現状を否定し、こちらの期待する方向に動かそうとしているからです。
だとすれば、正論を言う側にも相応のリスクを負う覚悟が必要ではないでしょうか。
自分は安全圏にいながら、相手にだけ変化を求める。
これは「自分は撃つけど撃たれたくない」と言っているようなものです。
戦場でそんな態度が通らないように、正論の場でもこの態度は通らないと思っています。
態度と言葉は同じ根から生えている
私の観測範囲では、「言うけどやらない人」は大抵言い方にもトゲがあります。
もちろん、自分もやる人でトゲのある人もいます。
しかし、「言うけどやらない人」で、伝え方は丁寧、他者を十分に慮れている人は正直見たことがありません。
考えてみれば当然かもしれません。
他者を慮れる人なら、自分もやるか、やらないなら言い方を変えるか、どちらかをするはずです。
両方しないのは、そもそも他者を慮っていないからです。
「言うけどやらない」と「言い方にトゲがある」は、別々の問題ではなく、同じ根から生えているのでしょう。
他者への想像力の欠如という、一つの態度の表れだと思っています。
正論を投げかける側の責任
ここまで書いてきたように、正論は気持ちよく、自分への視線は甘くなりやすいです。
だからこそ、正論を言う側には相応の責任があると考えています。
私が考える責任とは、言葉と行動の一致です。
他者に求めることを、自分自身にも求める——それも、同程度ではなく、それ以上に。
他者に求めるラインを10とするなら、自分は12や15を実行する。
そのくらいの差があって、ようやく「正論を言う資格がある」と思っています。
これは別に、自分ができていないことを一切言うな、という話ではありません。
「私もできていないけど、こうあるべきだと思う」とか「まだできていないけど一緒にやっていこう」という言い方はできます。
問題なのは、自分ができていないことを棚に上げて、さも自分はできているかのように他者を批判することです。
これは誠実さのない態度だと思っています。
できていない自分に気づく
どれだけ気をつけていても、言動が一致しない瞬間は生まれます。
問題は、そのズレに自分で気づけるかどうかです。
厄介なのは、立場が上がるほど指摘してくれる人が減ることです。
役職がついたり、経験年数が増えたりすると、周囲は遠慮して言わなくなります。
そして、この沈黙がさらに問題を悪化させます。
- 本人は沈黙を「問題がない証拠」と受け取る
- すると、他者を慮らない態度はそのまま温存される
- 周囲は「この人には言っても無駄だ」と学習し、ますます沈黙する
このループが回り始めると、自力で抜け出すのは非常に難しくなります。
だからこそ、自分の中に「指摘してくれる誰か」を仮想的に置いておく必要があると思っています。
常に「これ、本当にできてる?」と問いかけてくる存在です。
周囲が沈黙していても、自分の中での指摘は絶やさないようにする。
それが、ループに陥らないための最低限の防衛線だと考えています。
自戒として
正直に言えば、私自身がこれを完璧にできているとも思っていません。
気を抜けば他者には厳しく自分には甘くなりますし、正論を言う気持ちよさに流されそうになることもあります。
だからこそ、こうして言語化しておくことで、自分への戒めにしたいと思っています。
人には偉そうに正論をぶつけておいて、自分自身がろくにできていない。
そんな人間にはなりたくないので、これからも自分を厳しく見続けていきます。