綿貫佳祐 デザインポートフォリオ

考えるほど「本質」を語れなくなる

「本質」という言葉への向き合い方を整理してみました。

私は「本質」という言葉を意識的に避けています。

「本質的には」「もっと本質を」「それは本質ではなくて」——こういった表現を使いそうになったら、別の言い回しを探します。
「実態をあらわしている」とか「大勢を占める」とか、そのときどきに合わせて言い換えます。

なぜそうしているのか、自分でも漠然としていたので整理してみました。

本質を見抜くことの難しさ

本質を捉えるとは、対象の核を特定する行為だと思っています。
例えば、以下のような見極めが必要です。

  • 何が根本で、何が派生なのか
  • 何が不変で、何が可変なのか

しかし、これは非常に難しいです。
対象が単純であっても、ものごとの核は簡単に見えてきません。

むしろ、ある領域に詳しくなればなるほど、その難しさがわかってきます。
知れば知るほど、対象の複雑さや多面性が見えてくるのです。

だから軽々しく「これが本質だ」とは言えません。

私は、人一倍詳しい領域ですら「本質」を滅多に使いません。
というより詳しい領域の方がむしろ言えないかもしれません。

色々な条件や例外、理論と現実の乖離などを把握しているからこそ、一言で言い切る自信が持てないのです。

日常会話での「本質」の軽さ

にもかかわらず「本質」という言葉は日常会話で頻繁に使われています。
しかも、ビジネスの場・SNS・カジュアルな会話と、かなり広い範囲で、です。

日頃使われている頻度と、本質を見抜くことの難しさは、釣り合っていないのではないでしょうか。

「本質」という言葉を使う人の多くは、「自分は物事を深く理解している」という態度でいるように見えます。
しかし、その言葉が発せられる頻度の高さ自体が、深く考えていないことの現れに思えてしまいます。

本当に本質を探ろうとした人なら「これが本質だ」と断言することの難しさを知っているはずです。
軽々しく言えてしまうこと自体が、その人が本質を探った経験がないことの証左になっているように感じてしまいます。

美しくない、という感覚

これは批判というより、個人的な美意識の話です。

「本質」という言葉は、本来相当な重みを持っているはずです。
その重い宣言を軽い思考で発していて、かつその軽さに本人が無自覚である。

そういった、言葉の重さと思考の軽さの不釣り合いが、自分には美しく映りません。

別に万人が美しくある必要はないと思います。あくまで私の考える美しさの話です。
ただ、もう少し自覚的であってほしい、という願いはあります。

複雑なものを複雑なまま扱う

私が「本質」を避けるもう一つの理由は、複雑なものを複雑なまま扱いたいからです。

この感覚を言葉にするのが難しいので、いくつか例えを借りてみます。

投影と立体

プラトンの「洞窟の比喩」という有名な話があります。
洞窟の壁に映った影だけを見て、それが実体だと思い込んでいる人々の話です。

これに近いイメージで考えると、何かの本質を一言で言い切ることは、立体を一方向から平面に投影して「これが形だ」と言うことに似ています。

ある方向からの投影としては正しいかもしれません。
でも、少し光の当たり方が変わるだけで、その影の形は変わってしまいます。
つまり、一つの投影図だけでは、立体の全体像はわからないということです。

複雑なまま扱うというのは、投影図に頼らず、立体そのものを(例え完全には把握できなくても)立体として扱おうとすることです。

公式の丸暗記と導出

もう一つ、学生時代の勉強に例えてみます。

公式を丸暗記する人と、自分で導出できるようにする人の違いです。

公式の丸暗記は速く、定型的な問題には強いです。
でも、なぜその公式が成り立つのかを知らないから、少し条件が変わると対応できなくなってしまいます。

一方、導出する人は遅いし負荷も高いです。 しかし、条件が変わっても原理に立ち戻って考え直せるので、応用が効きます。

何かを簡単に「本質」と言い切ることは、公式を一つ手に入れることに似てると思います。
公式が使えるときの効率的は高いけど、使えないときには脆い、ということです。

複雑なまま扱っておけば、論理や原理原則が手元に残ります。
そのため、状況が変わっても、「この条件が変わったから、こう考え直す」ができます。

短期と長期の視点

ここまで書いてきた中で「本質」という言葉が多用される理由も少し見えてきた気がします。

それは、短期的には有効だからです。

ビジネスの現場では「要するに」が求められます。
複雑なまま扱おうとすると、ときには「決断できない」「まとめられない」と見なされることもあるでしょう。
限られた時間で意思決定するには、どこかで単純化が必要です。

そのため「本質」と言い切ることを全否定したいわけではありません。

ただ、長期的な視点で見ると、話が変わってきます。

状況は変わりますし、前提も崩れます。

そのとき、「本質」として圧縮された情報だけでは対応できないでしょう。
背後にある論理構造を保持していないと、新しい状況に適応できません。

短期的な効率を重視する場面で「本質」が語られることが多いように思います。 しかし長期的な頑健性を重視する場面で「本質」が問い直されることは少ない気がします。

立ち止まることの価値

「本質」を使うな、という話がしたいわけではありません。

ただ、一度立ち止まって考えてみてほしいのです。

その「本質」は、どの時間軸で有効なものなのでしょうか。

今この瞬間の意思決定には役立つかもしれません。
ですが、状況が変わったときにも通用するものでしょうか。

ある対象について「本質」を語れるほど深く理解しているのか。
他の可能性を十分に検討したのか。
何をもって「本質」と呼んでいるのか。

その小さな立ち止まりが積み重なれば、言葉と思考の関係が少し誠実になるかもしれません。

短期的な効率だけでなく、長期的な頑健性も視野に入れる。
公式だけでなく、導出過程も保持する。

そういう思考の習慣が広まれば、実は世界は少しだけ良くなるのではないか、という希望を持っています。