綿貫佳祐 デザインポートフォリオ

私の死生観について

自分自身の死生観について整理してみました。

自分自身の死生観について整理してみました。

普段あまり言語化していなかった部分も含めて、現時点での考えをまとめています。

個人の矮小性と集合知への貢献

私は、世界において一人ひとりの人間は大したことがなく、非常に矮小な存在だと捉えています。

しかし同時に、人類がここまで発展してきたのは、知識や技術を共有し、常に集合知でもって社会を更新してきたからだと考えています。

こういった視点から、私は自分自身を「集合知を更新するための機構」と位置づけています。

私だけが何かを成したところで、人類全体からすれば瑣末なことです。

しかし、私が何かの基礎や土台を提供できれば、今いる他者や後世の誰かがより大きなことを成せるかもしれない——そう考えています。

個人の成果そのものよりも、「次の世代への踏み台」としての価値を重視しています。

種の存続と人間の根幹的な営み

種としての人類が存続してきたのは、個々の能力よりも、集団としてのコミュニケーションや協力関係があったからだと考えています。

人間という生物の営みを考えたとき、他者とのコミュニケーションや、社会的な関係性こそが大事なのではないかと思っています。

人と人との繋がりこそが、人を人足らしめる、という意味合いです。

現代社会で人を評価する際、仕事の能力が重要視されているように思いますが、私としては正直そこまで大事には思えません。

社会の構造とか、仕事という行為自体にゲームチェンジが起きれば消えてしまうかもしれない、そういった移ろいやすいものに感じています。

もちろん、仕事の価値を否定しているわけではありません。

むしろその一時性を自覚した上で「今この時代に生きる人間として何ができるか」を考えることに意味があると思っています。

矮小性の自覚と究極への執着

ここまで「個人は矮小」と書いてきましたが、一方で私には強い執着もあります。

このポートフォリオの「未来史」にも書いていますが、「これを超えるものは無い」と言い切れるほどのクオリティのものを残して死にたい、という執着です。

個人は矮小だと言いながら、なぜそこまでの完成度を目指すのか——一見矛盾しているように見えるかもしれません。

イデアへの到達という思想的背景

大学生の頃、プラトンのイデア論に触れたことが、この考え方の原点になっているかもしれません。

イデア論では、現実世界のあらゆる物事には「完全な理想形」が存在し、現実のものはその不完全な影に過ぎないとされています。

この思想に触れたとき、私はイデアという存在を強く意識するようになりました。

完全に究極なものは無理だとしても、その時代や社会における「実質的な究極」があるのではないか?といった具合です。

個人は矮小で、限られた時間しか生きられません。

だからこそ、その限られた時間の中で、イデアに可能な限り近づきたいのです。

現実的に考えれば、私が何かを作ったところで、数年〜数十年もすれば技術革新などで容易に超えられてしまうはずです。

しかし私自身が死ぬ瞬間には、誰も超えられるイメージが持てないほどの完成度を目指すのです。

今日が90%の精度だったら、次は99%、更に次は99.9%……と、イデアに近づこうとする姿勢そのものが、次の社会を作るために必要だと考えています。

継承のサイクルへの誠実さ

矮小だからこそ究極を目指すというスタンスは、継承のサイクルに対する一種の誠実さだと思っています。

次世代のための踏み台を託すとき、その踏み台は可能な限り高く、堅牢であるようにしたいです。

中途半端なものを残して「これを超えてください」と言うのは、もしかしたら無責任とすら言えるかもしれません。

その時代の技術と知識を総動員して、その瞬間の究極を目指す。

そして、それでもいずれ超えられることを受け入れる。

この姿勢が、集合知の更新サイクルを健全に回していくために必要なのではないか、と考えています。

完成度への執着は、個人の栄光のためではなく、継承のサイクルをより力強く回すための責任だと思っています。

継承への強い意識

私の死生観の核心は「継承」にあると思います。

一子相伝の技術は、世代ごとに1人しか知識を知る人がいません。

そのため継承者に開拓精神がなければ、その世代では何も発展しません。

しかし、100人に継承されると、伝統を守る人もいれば、新しいことを試す人もいるでしょう。

分母が増えれば増えるほど挑戦が増え、結果的に発展する可能性も高まります。

いつからか分かりませんが、自分の死後も知識や価値観が受け継がれ、社会が更新され続けることへの強い願望があります。

個人の生と人類の生

ここまで書いてきたことは、ある意味で個人の生を超えた、より大きな「人類の生」に自己を接続しようとする試みかもしれません。

何度も書いていますが、一人の人間としての私は矮小で、限られた時間しか生きられません。

しかし、知識や技術、価値観を継承することで、私という個人を超えた何かが続いていく。

その連続性の中に、自己の存在意義を見出しているのだと思います。

これは諦めでもあり、同時に希望でもあります。

個人としての完全な満足は得られないかもしれませんが、より大きな流れの一部になることで、自分の生きた意味を見出せるのではないかと考えています。

まとめ

私の死生観をまとめると、以下のようになります。

  • 人間は、一人ひとりは矮小だが、集団への貢献を通じて意味を持つ
  • 死後に残るのは個人の名声ではなく、次世代が超えていくための土台
  • 継承のサイクルが続くことこそが人類の発展であり、自分の生きた意味

もちろんこれは現時点での考えであり、今後変わっていくかもしれません。

しかし、この死生観が今の私の仕事や人生に対するスタンスの根底にあることは確かです。